2016.5.15

〜いつも誰かが待ってくれている場所〜
 私は連絡もせず教会にふらっと立ち寄る事があるのですが、いつも必ず閔先生が出迎えて下さり時には奉仕中、学び中の兄弟姉妹にまで会える小泉町教会が大好きです。先週の昼食準備は急な来客があり約束通りの時間に行けませんでしたが、忙しい閔先生に代わりなんとG兄が教会を守ってくれており感謝と感動で一杯になりました。
 最近よく近所の子供たちやその母親が散歩がてらうちに立ち寄ってくれます。先週の教会帰りにも沢山のおもちゃでパンパンになったリュックを担いだ子が私たちの帰りを待っていました。張り切って来たにも関わらず誰もいない家の前で不安げな顔をしていましたが、私たちが帰るとすぐに笑顔になり一緒に遊ぼうとおもちゃを広げてくれました。うちに遊びに来てくれる子供たちはいつも楽しそうにしてくれていますが、そんな子供たちを見ていると教会で出迎えられ笑顔になる自分と重なります。神の家族に会える第二の家である教会、開かれたその家をいつも守って下さっている閔先生ご家族に改めて感謝申し上げます。そしてうちも他人にとっても落ち着く温かい愛で溢れる開かれた家であり続けられるよう祈ります。
I.A姉
 

2016.5.15

『命をもたらす風なる聖霊(創世記1:1〜2、 使徒言行録2:1〜4)             
 ペンテコステおめでとうございます。本日は教会の誕生日であり、イエス様の約束された助け主としてわたしたちのうちにやって来られた聖霊を喜び祝う礼拝です。世界の人々の中にクリスマスのことを知らない人はいませんし、イースターについても何とか分かっていることでしょう。しかし、ペンテコステというとほとんどの人は知りません。けれども、ペンテコステ、すなわち聖霊が人の歴史のただ中に来られたことによって世界は変革を迎えたわけですし、新しい創造の業が始まることになったのです。   
 聖霊が初代教会の群れの上に激しい風と共に臨まれた日に起きた変化として、まず弱虫であったペトロが偉大な伝道者に変えられましたし、他の弟子たちも地の果てとされていた場所に命をかけて伝道する人に造り変えられます。また120名の敗北者たちが福音の勇者に変わります。もしペンテコステがなかったら、ここ日本まで福音が伝わってくることはなかったし、私たちはいまだ救いを知らない民になっていたはずです。特に、聖霊は今も生きて働かれる方、私たちを日々導かれ、交わってくださるお方であるので、聖霊なしではわたしたちの教会も、わたしたちの人生も、希望も語れませんし、成り立たなかったはずです。
 命をもたらす聖霊は一人一人の魂の内に、また共同体の内にご自身を吹き込まれることですべてを新しくしてくださいます。聖書は聖霊の働きを創世記1:1,2から早速記しています。「初めに、神は天地を創造された。・・・神の霊が水の面を動いていた。」 ・・・創造のただ中におられ命をもたらされた聖霊の働きはその後、人を造られる時も、紅海を渡る出エジプトの時も、エゼキエルが見た枯れた無数の骨を希望の集団と変えられる時も、そして初代教会の誕生も地の果てに至る福音の勇士とするために人々が変えられる時も、聖霊が圧倒的な命をもたらす風として働かれるさまを聖書は描いてくれます。
 聖霊は目には見えないけれども、風のように、息のように、わたしたちを囲み、わたしたちを生かし、行くべき道を作り、永遠に変わることのない命で包んでくださるお方なのです。ですから、聖霊との交わりと助けがなければ私たちは何もできませんし、命溢れる信仰生活も、また命を生み出す働きもできないのです。そうです。教会の命は聖霊の風に満たされることにかかっているのです。 

2016.5.15

〜 十年一昔、バプテスマの恵みを思い出す 〜
 富山小泉町キリスト教会に赴任して早くもそろそろ10年目に入ります。古くからのことわざに「十年一昔」という言葉がありますが、その言葉通り、わたしたちの教会を取り囲む状況は全く変わってきたことに驚きを覚えます。10年前の教会の周りには田んぼが多く残っていましたし、家もそれほど多くありませんでしたね。田んぼや自然がなくなったせいか、毎年目にしていたキジの親子も見えなくなりましたし、鳥たちの鳴き声も、今頃のカエルたちの大合唱も聞こえなくなりました。自然が大好きなわたしから見たら寂しいことです。 また町のどこからも見えていた十字架塔も次々と建つ家々に囲まれて見えなくなっています。このように激しく変わっていく世にあって、わたしたちの教会はどのような変化を遂げてきたでしょうか。                       
“だから、キリストと結ばれる人は誰でも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。”(Ⅱコリント5:17)“新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。”(マタイ9:17) 本日バプテスマを受けるN兄とは5回に亘る聖書の学びの時を過ごしました。10年前の幼い幼稚園児の姿はもうありません。しっかりとした神様への信仰告白ととても誠実で真摯な一人の信仰者の発見に感謝と喜びの賛美を献げるのみです。大きい身長がどこまで伸びるか分かりませんが、神への信仰においてもますます伸びていき、神と教会の誇りとなる望兄を夢みていきたいと願います。神の家族の皆さんはバプテスマを受けた時の感動を覚えていますか。その時と比べて皆さんの信仰はどのように変わっていますか。シャローム

2016.5.22

バプテスマ信仰告白
 僕は小さい時からこの教会に通ってきました。そして、いつの間にか通うことが習慣になっていました。それから5年生になってから、教会に来る時間を受験勉強に費やしたいと思うようになりました。その時から神様との関係が離れてしまったように思いました。しかし、神様は受験の時、知識と勇気をくださいました。その時から神様を心から信じるようになり、この一年間で多くの事を学びバプテスマに至りました。・・・「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば見つかる。門をたたきなさい。そうすれば開かれる。」(ルカ11:6) 僕はまだ13歳ですが、今までに多くの罪を犯してきました。人は、目には生きているように見えますが、根から切り離された花のように神から離れている人は、もうすでに死んでいます。なぜなら罪の代価が死だからです。
 しかし、神様は独り子を信じる者が一人も滅びないようイエス様を贈り、罪の代価を背負ってくださいました。その時、神様と人との間にできている谷に十字架をかけて下さいました。そして三日目に復活し、希望を与え、永遠の命を与えてくださいました。そして、今も聖霊様が僕を導いてくださることを信じます。
 僕は、今から罪まみれだった自分を捨て、新しく生まれ変わります。そして神様に従い続けることを約束します。また、今から建てていく信仰の基を、御言葉の上に築くことを約束します。また神様の無償の愛をしっかりと受け入れます。そして、十字架の横の柱「人と自分との関係」を現実にするため、イエス様のことをまだ知らない人のために懸命に伝えることを約束します。アーメン!
             K.N兄

2016.5.22

 『 心を動かされて生きる 』エズラ1:1〜6、Ⅱテモテ3:16)
 キリスト者であれば誰もが聖霊に心を動かされて生きる人であると言えます。なぜならば聖霊によって心を動かされなければ福音を信じることも、イエス様に従うこともできないからです。聖霊に心動かされることで悔い改めに導かれますし、救いの出来事も聖霊が心を動かされる中で起きることになるのです。ですから、この世においていかに頑なな人であっても、聖霊が心を動かしてくださるのであれば、その人は自分が罪人であること、またイエス・キリストが自分自身のために十字架にかかり命を捨て、身代わりとなってくださったと確信し、イエス様と共に勝利の道を歩むことになるのです。
 しかし聖霊が心を動かされる人はキリスト者だけに限りません。“主がペルシアの王キュロスの心を動かされた。”(1節)今日の聖書に登場するキュロス王はペルシア帝国の王でした。異国の王であって、当時世界を支配していた最高の権力者が、聖書の神、イスラエルの神に心を動かされるということは考えられないことです。しかし聖書は主なる神がキュロス王の心をどのように動かされたのかをキュロス王の言葉で次のように証言しています。“天にいます神、主は、地上のすべての国をわたしに賜った。この主がユダのエルサレムに御自分の神殿を建てることをわたしに命じられた。”(2節)と。・・・そうです。その人がどんな背景を持ち、どのような特徴をもっている人であれ、聖霊に心を動かされる人、聖霊に心を動かされ立ち上がる人を通して、神の業が始まり、神の栄光が現されることになるのです。
 また神は神の御心に動かされて生きる一人だけでなく、同じく神に感動し、心動かされている人々を加えてくださいます。キュロス王の心を動かされた神は、今度はイスラエル共同体の心を動かされます。(5節)とりわけ神がキュロス王とイスラエル共同体の心を動かされた目的がエルサレム神殿を建てるためであったと聖書は教えます。神がいかにイスラエル共同体からの生きた礼拝を望んでおられたのかがうかがえます。
 このような聖霊による働きは、今わたしたちが生きているこの時代においても同じです。わたしたちが何か始めようと計画する時、わたしたちを励まし、確かに導かれるのは、まず心を動かされることからです。聖霊がわたしたちの心を強く動かし、確かな信仰と勇気をくださる時、わたしたちはキュロス王のように、イスラエル共同体のように、初代教会の人々のように変えられるはずです。
 今朝、わたしたちの教会が、また一人一人の日々が、聖霊に心を動かされ、感動し、喜んで御心に従うことができれば、神はわたしたちの群れを通して素晴らしい御業を始められることでしょう。