2018.12.2

〜 ゆっくり生き、じっくり味わう人生 〜
 “いのちが一番大切だと思っていたころ、生きるのが苦しかった。
いのちより大切なものがあると知った日、 生きているのが嬉しかった。”

 先週、星野富弘さんの「花の詩画展」に行ってきました。星野富弘さんとその作品に関してはすでに詩画集などで知ってはいましたが、本物の作品を見るのは初めてで、とても嬉しかったです。
 星野さんは今から48年前、中学校で体育を教えていた時、予期せぬ頸髄損傷を負い、首から下が麻痺してしまうという悲劇に遭いました。しかし星野さんはお母さんの支えのもと、その障害にめげず、口を使って詩や絵を書き続け、多くの人々に感動を与えるようになる。…あそこまで描けるようになるために注いだ彼の努力に驚くだけです。
 星野さんの絵と詩には神の造られた自然世界、その中でも身近に存在している花や鳥、動物などが多く登場します。すべての作品からは彼の温かい眼差しと信仰する者の命がしみじみと伝わっていて、心の底から込み上げてくる言葉では言い表せない感動の歌が聞こえてくるような恵みがありました。その中でも、私の心に届いたのが、「ゆっくり」と「じっくり」という言葉でした。現代社会はとにかく速さと結果が同時に求められる時代で、少しでも遅れたり、好ましくない結果が出たりすると非難を受けることも当たり前であって、人々は疲れてしまいます。
 しかし、星野さんは私たちに囁きます。“ゆっくり生きましょう。そしてじっくり味わいましょう。そして、私たちの人生を楽しみましょう。”と。…たくさんの人が花の詩画展に集まり、詩と絵を読み黙想するためにゆっくりと進んでいく、そして各作品から伝わってくる感動をじっくりと味わっている。その人々の姿から、“現代社会に求められることがここにあるんだ!”という喜びの叫びが伝わってくるような気がした詩画展でした。シャローム

2018.12.2

『神の熱意に希望を置く』 (マタイによる福音書6:9〜15)
 本日からアドベントに入ります。アドベントという言葉は「近づく」「到来する」という意味です。つまり、旧約聖書に預言されているメシア、救い主が、罪に覆われた地上に住むわたしたちの生活の真ん中に、力強く近づいてくださり、到来してくださることを心から待ち望む時期です。ですからクリスマスの季節とは、「メシアを待っている人間側の期待」と「人との交わりを待っておられる神の熱情」が一つとされた時であると言えましょう。
 そして聖書は、待ち望むことには、「冒険」が求められると教えます。天の神が地に住むわたしたち罪人を愛し、救い出すために、輝く天の御座を捨て暗闇の地に降って来られたことこそ、最も大いなる冒険であると示していますし、その神のわたしたち罪人への一方的な愛と語りかけに答え、神に出会うため命をかけて旅に出かける人々の冒険、この両方の冒険が一つとなったのがクリスマスの出来事であったことを示してくれるのです。
 イスラエル民族にはメシア思想がありました。神が聖書の御言葉を通して約束してくださったメシアを待ち望む民であったイスラエル。しかし、長い間、周辺の強大国の植民地とされていたため、彼らを救い解放してくれる力強い王を期待しずっと待っていたわけです。宗教指導者たちをはじめ、イスラエルの民らは、強力な政治的王を待っていたわけです。そのような願望が強ければ強いほど、預言者たちの預言の言葉を素直に受け入れることができず、人間的願望に偏って解釈する過ちを犯してしまうことになります。
 預言者イザヤはメシア預言を語る前に、罪深い人間が置かれている厳しい状態を描きます。それは、“苦悩があり、辱めを受けている。また、闇の中を歩み、死の陰の地に住んでいる。軛を負っていて、杖に打たれる肩、鞭に虐げられている”と。…しかし、そのような厳しい暗闇のただ中にメシアが大いなる光として輝き、闇の中にいる人々がメシアの光を見ることになると宣言します。
 大いなる光としてやって来られるメシアは「ひとりのみどりご」として生まれる。しかし、そのひとりのみどりごこそ、“権威をもつ驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君であって、そのみどりごの王国は正義と恵みによって立てられ支えられる(9:5、6)”と宣言します。…不思議です。「ひとりのみどりご」として来られる方が「力ある神、永遠の父」だというイザヤの預言をあなたはどう受け止められますか。ひとりのみどりごが立てようとする神の国をあなたは期待できるでしょうか。
 しかし私たちは次の言葉を通して揺るがない神の約束をいただきます。 「万軍の主の熱意がこれを成し遂げる」(9:6)と。そうです。私たちの希望を置くところこそ、創造者であり、救い主、助け主なる真の神の熱意です。クリスマスこそ、すべておできになり、常に最善を成してくださる神の熱意に目を注ぐ希望の時なのです。ハレルヤ!

2018.12.2

〜はじめまして〜
 私は、今年の5月に夫の転勤で山口県から富山県に引っ越してきました。以前は、周南市にある徳山伝道所という小さな教会に通っていました。そこは無牧師ということもあり、礼拝準備、会堂管理、会計等の働きを、全て少人数で担わなければなりませんでした。そこでの15年を振り返ると、教会員が離れていったり、母教会が閉鎖されたりと、苦しいことが何度もあり、その度に嵐の海の弟子たちのように「わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と、イエス様に叫びたくなりました。でもそんな時、一心に祈っていると、不思議と御言葉が心に迫ってきます。そして、勇気づけられ前進することができました。
 こちらに来て、以前より聖書を学ぶ機会が増え、あの辛かった時期は、実はイエス様の愛を知る恵みの時だったのだと感じるようになりました。この出会いに感謝しております。
              A.T姉


神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。
コリントの信徒への手紙一 10:13

2018.11.25

〜「自己責任」という言葉の愚かさ②〜
 “狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。(マタイ7:13〜14)”
 キリスト者の生き方の基準は聖書の御言葉です。御言葉に生きようとするキリスト者は絶えずこの世の価値観と対抗し、葛藤するはずです。イエス・キリストが歩まれた道は十字架の道で、常に狭い門を選ぶ道です。同じように、現代を生きる私たちキリスト者も、たとえ命の危険が待ち受けているような道であっても、神の国の宣教のために主イエスの足跡に続くことを喜びとするはずです。そして主イエスの足跡に続こうと旅立つ人のために、家族はじめ教会共同体、そしてその人が属している国はその献身を感謝しつつ、祈りをもって応援し見守る責任があるのです。
 もちろん、国家や社会における共同体は、それぞれの体制を維持するために、構成員に「自己責任」を求める時も当然あるでしょう。だからと言って、すべての場合に自己責任という論理が通用するわけではありません。個々人の責任が問われる時もあれば、国家の責任、共同体の責任がそれ以上に重みのあるものとして問われる時があることを忘れてはなりません。国家や共同体が「自己責任」という論理で一人の国民を保護する責任を放棄する時、国民は不幸になりますし、やがては国民が国家を信頼できなくなり、国家を捨ててしまう時が訪れるかもしれない。
 神の家族の皆さん、たとえ国家が、周りが、自己責任という枠であなたを閉じ込めようとする時、あなたはそれに従えますか。もちろん、私たちが何もしなければ何も起こらないでしょう。危険にさらされ苦しむこともないはずです。いつも平坦で広い道を選んで歩めばそれなりに安心できるでしょう。しかし、いかがでしょうか。それでいいのでしょうか。とりわけキリストを主と信じる者として、この世の価値観に支配されて生きることに満足できるでしょうか。もしあなたが御言葉に生きようとするキリスト者であるならば、「自己責任」という言葉がいかに愚かであるかに気づくことになるでしょう。・・・シャローム

2018.11.25

《執事による宣教》
『不寛容な社会』
 (マタイによる福音書6:9〜15)
 「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」(マタイ6:14〜15)この箇所は、『主の祈り』に続く、大切な教えです。「赦し」に関しては、ルカ福音書では、「もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」(ルカ17:3〜4)と「一日に七回」あります。マタイ18章では「そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。『主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。』(マタイ18:21〜22)イエスは言われた。『あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。』」とあります。この二つの福音書の文脈から、イエス様がお話しされた「一日に七回」という教えに対して、ペトロは、「何回まで赦せばよいのか」という赦さなくてはならない限度を聞いています。イエス様が言われた「七の七十倍=490回」ということは、つまり、とことん赦しなさいということです。
 ところで、「赦す」・「赦さない」ということはどういうことでしょうか?主の祈りでは、「わたしたちの負い目を赦してください。」とあります。マタイ18章22節に続く喩えは、王様に1万タラント(1タラントン=6千デナリオン⇒1デナリオンは当時の1日の賃金)という、現代なら莫大な負債を赦されたのに、同僚の60万分の1である100デナリオンの負債を赦さなかった僕が登場します。この喩えの中に「主人は憐れに思って」とあります。非常に寛容な主人です。コリントⅠ13章4節に「愛は寛容であり、愛は情深い」(口語訳)とあります。「赦す」ことは、「情け深く寛容な心」つまり「愛」の重要な性質なのです。一方、「赦さない」は、「不寛容」であり、「人を裁く」行為でもあります。マタイ7:1には、「裁いてはならない。」とあります。
 今日学校や保育園・学童で子どもがケガをすると親が責任を追及し訴えるケースが頻繁にあります。極めて不寛容な社会になっています。不寛容な社会は愛のない社会なのではないでしょうか?私たちは、「赦せない」人がいますか?そして、自分自身を「赦し」ていますか?
エス様のご降誕を待ち望むアドベントを迎えるにあたって、罪ある私たちを憐れに思い、罪を赦すために十字架にかかられた神様の愛に思いを馳せたいと思います。
                S.S兄

2018.11.25

 10月26日(金)朝、私の次兄が亡くなりました。三人兄弟の真ん中で私と一つ違いの53歳。小さい頃はいつも兄の後ろについて歩いて「金魚のフン」と呼ばれていました。父が死に忙しい母親に代わって箸の持ち方や自転車の乗り方等その他あらゆることを彼から教わりました。
23日(火)に富山赤十字病院から呼ばれ、すい臓ガンの末期で肝臓と肺にも転移しその日のうちに亡くなっても不思議ではないほど手の施しようのない状態と告げられました。救急に入った当日に本人にガンの告知はしないものだそうですが、兄の場合は残された時間が少なく直ちに医師より告げられました。
 25日の南砺市礼拝で命は主のものである事と心から願うなら主はどんなことでもお出来になる方である事をヒゼキア王の話(列王記下20章)を通して学びました。その後閔先生に兄の病室で福音を語って頂き祈りを共にしました。兄の魂の取扱については神様に全てお委ねします。重病の兄に3日間の時を与えて下さった神様に感謝し御名を讃えます。
 兄と私と家族の為にお祈り下さった主にある兄弟姉妹に改めて感謝致します。まだ救われていない大切なご家族や知人友人の皆様が1日も早く主にまみえますようお祈り致します。栄光在主。
                 S.Y兄

2018.11.18

〜 二つの教会の恵み 〜
“目をまっすぐ前に注げ。あなたに対しているものにまなざしを正しく向けよ。どう足を進めるかをよく計るなら、あなたの道は常に確かなものとなろう。(箴言4:25〜26)”
 先週は第64回日本バプテスト連盟の定期総会に行って参りました。“まなざしをまっすぐに”という主題のもとで開催された今回の総会は、選挙の年を迎え、理事長はじめ常務理事、その他これからの連盟の働きを支える方々が選ばれました。とりわけ連盟の厳しい経済状況、献身者の不足などネガティブな話が飛び交う中、何よりの感動と慰めを与えてくれたのが、二つの教会の証しでした。
 まず、今回新しく連盟に加わった東海バプテスト教会でしたが、今年の総会で連盟加入するという希望を抱き、その日を楽しみにしておられた牧師先生が今年の8月突然召天されるという試練に遭われたそうです。しかし、牧師不在という厳しい状況の中であっても、教会員が心を合わせ悲しみと苦しみを乗り越え、いよいよ総会の舞台に立って証しする皆さんの姿から言葉では言い表せない感動をいただきました。
 また、福島旭町教会の時の痛みを乗り越え、「福島主のあしあと教会」という名前で新しい出発を始められた皆さんの報告がありました。しばらくの間、連盟の諸教会の悩みと葛藤の火種となり、祈りの課題となっていた福島旭町教会でした。長い間、信徒たちが受けた傷は深刻なものであり、多くのメンバーが教会を離れるという悲しい歴史がありました。しかし、新しい牧師を迎え、子どもたちには笑顔が戻り、喜びの礼拝を始めているという涙の証しを聞きながら、主イエスの教会はどんな傷や痛みがあっても、決してつぶされることなく、しっかりと建て直されていくことをもう一度確かめることのできた恵みのひと時でした。二つの教会の証しが終わった後、会場に降り注ぐ大波のような拍手喝采は止まることはありませんでした。
 神の家族も“まなざしをまっすぐに”し、主イエスの喜ばれる教会を形成して参りましょう。シャローム