2016.3.6

〜まず慰め人が癒されよ〜
 3月になるとあの日までの毎日が試練です。11日の東日本大震災の日。東北に住む我が愛する姉とはインターネットでいつも近況を知らせ合っていますが、この期間の彼女の心の重さが我が心をも引っ張ります。震災時も数日で復帰したネットに乗ってきた彼女の状況や思い。都市部に住む彼女は震災の甚大な被害の中では、「被害は少なかった」と言われてしまうでしょう。しかし、いいお母さんとして魅力的な女性として活き活きと過ごしたいと思い描く生活は、その日壊滅しました。家族のために心をこめて飾り付けたこまごまと可愛い品は割れ散らかり、全て片付け心を立て直そうとした矢先に起きた二度目の大きな揺れが最も残酷な破壊だったのかも知れません。頻繁な余震はその度に彼女の希望を全壊させたのでしょう。
 一方傍観者の負い目から、彼女を大胆に主の救いへと連れていく手に力が入らず、「もう何も変わらないことだけが私の願い、何も新しいことは望まない」という重い返事に、喉がつかえる私。でも最近、これは小さいけれど深い自分自身の傷であり、軽いけれど固着されている自分の荷であると知るようになりました。まず慰め人たるべき私自身がもっと主の前に近く出て、それらを癒し下ろしていただくように願い求めなければ。主は決して「そのくらい大したことはなかろう」とは言わないでくださるはずです。
`S.M 姉

2016.3.6

 『二つのおそれ』(マルコによる福音書4:35〜41)
 人類のテクノロジーは驚くべき速さで進化しています。少し前までは考えられなかったことが、今は当たり前になっていきます。インターネットさえあれば地球の裏側の人ともすぐ繋がることができます。すでに宇宙旅行ができるようになり、車の運転は近い将来自動運転になるそうです。しかし、いくら人間の科学技術が進化したとしても、どれだけテクノロジーが発展したとしても、自然界の法則の前には私たち人間は一切無力であります。それは、聖書の時代からまったく変わっていません。私たちは波ひとつ静めることはできませんし、風ひとつ止めることはできません。突然襲ってくる自然の力を止めることはできないのです。私たちは生きる上で様々な恐れというものに遭遇します。皆さんは人生の中で感じる「恐れ」といえはどのようなことが思い浮かぶでしょうか。一番恐ろしい事と感じたご経験はどんなことでしょうか。
 今週金曜日に私たちは忘れられない日を迎えます。3.11あの東日本大震災から5年が経とうとしています。東北地方を襲った1000年に一度と言われる未曽有の大震災でした。誰も予想しえなかった津波の被害に合わせて、原発事故とまさに想像を絶する被害の大きさに日本中が言葉にならない深い悲しみに包まれました。5年経った現在でも未だに多くの人が苦しみの中にあることと思います。私たちは被災地を覚えて祈り続けていかなくてはなりません。
私たちが恐れを感じた時どうするべきでしょうか。突然の絶望、試練が襲って来る時どうすればよいのでしょうか。弟子たちは一番近くにいるイエス様が見えませんでした。私たちはその時イエス様に気づくでしょうか。どこに目を向けるべきなのでしょうか。恐れの中でも、その問題に目を向けるのではなく、全てを支配しておられる神に目を向ける必要があります。恐れの中から神により頼むとき時、神が豊かに働いて下さいます。激しく荒れ狂う波の中でも、普段の穏やかな日常のような静かな波の中にも、どこにでも、イエス様が共におられます。その舟の上に、この教会に、そしてあなたと共にイエス様は確かにおられます。
                                 宮田祐亮神学生

2016.3.13

マインドマップ
 受難週で、東日本大震災から5年目をむかえた大切な週に、私のような者がこの原稿をお受けし、深く反省しています。
 ところで私には、この10年来気になっている記述法があります。それは、普通の記述法をノート法というのに対し、マインドマップというものです。ひょんなことで、目にして以来、描いてみたいと感じたものの、教えていただける人や機会にはまったく恵まれず、あきらめていました。ところが、教会で使っている帳面がちょうど年末に最後のページとなり、新年に新しいものの1ページ目を開いた時、この記述法のことを思い出しました。
 もともと、要所をおさえて人に物事を話したり、聞き取ったりすることが苦手で、図や絵で物事を考えるような私には相性の良いものだと感じているものの、学ぶこともせず、我流で描き始めることにしました。後で見直すと、ノート法とぐちゃぐちゃマップ混って感じですが、描いているときは何だか楽しいものです。
 先日、「サンフランチェスコの平和の祈り」が目に入る機会がありました。前に読んだものとは訳が違っていたようで、妙に新鮮に感じられました。今の私の必要なものだったのかな。日々、霊肉共々この世のものに支配されている中で、マインドマップの試みも神様からのチャレンジだったりして…
 ぼーっとしながら、いろんなことを考えて、春を迎えています。
                   K.I姉

2016.3.13

『自分の道を進まなければ』(ルカによる福音書4:35〜41)
 これから、イエス様は覚悟をもってエルサレムへ行かれます。過越の祭を祝うエルサレムの町に群衆の賛美を持って迎えられ、そのあと十字架にかかられるのです。本日の聖書箇所はその流れの中で起きたひとつのできごとです。イエス様はどう答えられるのか、今イースターの日曜日に向けて心の備えと黙想をするわたしたちがともに読んでいくことになります。キリストの弟子であるわたしたちがどう生きるかを見つめて、自分がどのように変われるか、どこを悔い改めることができるかを見出したいものです。
 イエス様はガリラヤ中の村々を回って、人を癒し教えを広めておられました。そこにパリサイ人が現れ、「領主ヘロデ・アンティパスがあなたを殺そうとしていますから、ここを立ち去ってください」と言います。イエス様はどう反応されるでしょうか。わたしたちの誰もが、いろいろな意味で、類似の状況に立ったことがあるはずです。命を狙われているとまでは言われなくとも、良くないことが起こる、問題が起こる、失敗する、と警告されることはよくあるものです。そのとき自分が、抱いた考えを全く変えてしまったり、受けた言葉を気にして物事が手につかなくなってしまうようなことも、多いのではないでしょうか。しかし、イエス様はつねに天の父のみこころに近くおられましたから、警告の言葉をふるい分けることができ、時間と力を使うべきでないものはハッキリと心得ておられました。そこで、世人の予想とは別の応じ方をされました。それは、ただこれまでのように自分の道を進み続けること。
 神はわたしたちひとりひとりを、またこの教会をも召し出されました。賜物も集められた経緯もいろいろのわたしたちが教会においてひとつになり、この富山で神のみこころのためにともに働くようにされたのです。わたしたちが担うべき神の御業の一部が何なのかを見出すのは、チャレンジでもあり特権でもあります。このレントの時期、わたしたちの頭や心の中でぐるぐる回っている声をじっと聞き分け、神に知恵を求めながら「聞くべきもの」と「やり過ごすもの」、「神からのもの」と「他からのもの」を区別できますように。イースターは新たにされるとき、贖いの時ですから、そこに向かって歩むわたしたちが、主のみことば「私は自分の道を進まなければならない」を確信をもって自分に適用できますように。  
                   ローラ・フーシー宣教師

2016.3.13

 〜 ゲッセマネの祈りから十字架へ進む 〜
 先週金曜日の3月11日、教会では5周忌を迎える東日本大震災を覚える祈りの時を過ごしました。 一日を通じて震災の被害に遭われた方々、今もなお悲しみの涙を流している方々のために心を合わせました。とりわけ今は受難節、イエス・キリストの受難を黙想し、十字架に至るまでの歩みを辿っている時でもあるため、災害に遭われた方々への執り成しは一層切なかったことでしょう。
 主イエスの十字架を通してあなたとわたしの罪と汚れ、弱さと痛み、絶望など人類が背負うべきすべての苦しみが解決され、救いの道が開かれるようになりました。神の独り子の十字架が背負えない問題はなく、十字架によって解決されない苦しみはありません。・・・しかし、その十字架の恵みは「祈り」がなかったら、すなわち「ゲッセマネの血の汗を流す必死の祈り」がなかったら十字架の恵みをいただくことはできなかったはずです。 神の独り子でさえ、御心に従う道を選ぶ決断を下すためには、祈りを通して神の御心を確かめなければならなかったのです。それほどゲッセマネの祈りは十字架を背負うためになくてはならない現場だったのです。
 2015年度の歩みを終え、新しい年度を迎えようとする小泉町教会の群れに求められることこそ、主イエスゲッセマネの祈りに倣うことであると信じます。近頃の水曜祈祷会のメンバーが10名を超えようとしていることは大きな恵みです。わたしたちがいかに素晴らしい計画と夢を描いていても、ゲッセマネの祈りがなければ決して前に進むことはできないはずです。新しい年度を始めるに当たって、“わたしたちの願いどおりではなく、御心のままに。”という祈りの姿勢をもって進み出、導きを希うことでしょう。シャローム