2016.2.7

〜今年の課題を考える〜
 毎週火曜日に聖書の学びで、昨年は主にパウロの手紙を通して学び、その中でもローマの信徒への手紙では神様からの教義的な教えを学び、コリントの信徒への手紙では教会の実践的な運営・管理・いろんな諸問題への対処方法などについて学びました。これを自分の知識だけにとどめておいたのではなんの意味もありません。また物事を実行してもそこに愛がなければ何の意味もないことも学びました。教会は人間の体と同様にいろんな部位からできていますから、お互いがそれぞれの奉仕、役割を果たし、それを有機的に結びつけていくことが大切です。昨年、女性会が発足しました。今年は男性会を発足させ、執事会や皆さんで決めたことを実行する部隊として働く様に、例えば教会の花壇に土を植え土台を作り、女性会がそこへ花を植える、このような相互の働きができる様に!また神様に対しての恩返しは御言葉を伝道することだと思いますので、自分の教会内だけにとどまることなく外向きな伝道活動をすることが大切です。従って皆さん、今年は積極的に外向きな伝道活動にチャレンジしようではありませんか!常に感謝の気持ちと謙遜の態度で行いましょう!
I.H兄

2016.2.7

『神の時を選ぶ人は幸いです④』(ルツ記1:19〜22)
“ナオミは言った。「どうか、ナオミ(快い)などと呼ばないで、マラ(苦い)と呼んでください。全能者がわたしをひどい目に遭わせたのです。”(1:20)

 ナオミがルツと一緒に故郷のベツレヘムに帰ってきました。故郷に着いてから、彼女を知っている人たちの前でナオミは“これから自分の名前をナオミ「快い、喜び」ではなく、マラ「苦い」という名前で呼んでほしい!”と頼んでいる姿があります。この箇所を見ると、まるで神がナオミの人生を失敗へと導いたかのような方として紹介されているように思われます。しかしこの告白には彼女が今まで味わっている失敗こそ、神の責任ではなく、自分自身が神の祝福の御旨から離れてしまったことによる結果であったことを正直に認める後悔の意味が強いのです。すなわち、神の計画と御心から離れて生きるのであれば、その人の人生は決して幸いを得ることはできないこと、人間の努力や選択だけでは人生は駄目になっていくことへの告白だったわけです。
 そうです。わたしたちの神は決していたずらに神の子どもたちを苦しめたり、神の目的のためにわたしたちの人生を操縦される方ではないことを知っておくことです。むしろ神は神の子どもたちに祝福を与えようとされる神、万事を益としてくださろうとするお方、わたしたちを愛する父であることを忘れないことです。
 「全能者」とはヘブライ語で“シャダイ”と言います。この言葉は神の名前の一つであることを聖書は教えます。すなわち「エル・シャダイ=全知全能の神」が、ナオミが体験した神だったのです。エル・シャダイとは“実現不可能なことを成し遂げられ、人の未来を定め、どのような環境においても祝福をもたらしてくださる全能なる神”、ナオミはそのようなエルシャダイの全能なる神を体験したわけです。彼女は自分の間違った選択によってすべてを失いましたが、その代わりに人生における本当の主人である全能者なる神を得ることができたのです。
 そして、いよいよ「全能者なる神」が具体的な恵みのご計画をもってナオミとルツに関わろうとする時がやって参ります。「大麦の刈り入れの始まりのころであった」(1:22節)・・・ルツとボアズの出会い、二人の夢にも思ったことのない「運命的な出会い」の物語が始まるのです。ここにこそ偶然を装う「エル・シャダイの神」によって成し遂げられる全人類への大いなる救いの愛の物語が始まるのです。神の恵みを求めて御翼の陰に入ってくる子どもたちを喜んで受け入れ、彼らを通して新しい御業を始められる全能者なる神をほめたたえましょう。
“常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。”(箴言3:6)

2016.2.7

 〜 十字架の伝染力をもつ証人たち 〜
 インフルエンザが猛威を振るっています。幼稚園や小中学校が続々とインフルエンザによる学級閉鎖になっています。先週、わたしもどこで移ったのか知りませんが、急性胃腸炎という診断を受け、しばらくの間、苦しい時を過ごしました。また今世界は“ジカ熱”というウィルスの恐怖に怯えています。突然人類の内に現れた災いに世界は必死になって治療法を探していて、各国はますます閉鎖的に変わっています。その影響で、今年のオリンピックのことまでも危うくされている状況です。それに加え、北朝鮮によるミサイル発射、あるプロ野球史に残る英雄の薬物による逮捕のニュースなどを通してますます心が縮むような衝撃を受けている日本社会です。
 わたしたちは意図してもしなくても互いに伝染し合っています。どっちが良い悪いは判断できない時代を生きているのです。だからこそ、常に健康な生活を保ちながら、病気にかからないことを心がけることでしょう。そして誰かから移られたとしても恨んだり、憎んだりすることなく、お互い赦し合い助け合うことですべての災いから立ち直ることができるのです。しかし、人に伝染するのは病のウィルスだけではありません。不安、恐れ、失望、憤り、絶望、嘆きなど様々です。まさにこの世における悪しき力、暗闇の力からのウィルスです。実際、多くの人の魂と心がこれらのウィルスに伝染されていると見ていいでしょう。それではどうすればいいのか。
 このような時代にキリストの教会とキリスト者がもつ伝染力こそ「イエス・キリスト」です。イエス・キリストの命をかけた愛と永遠なる希望、喜びの福音、敵への赦し、真の平和がそれです。エルサレムから始まった少数のキリスト者によって伝えられたイエス・キリストが、あなたとわたしに伝染され、また周りへと伝染することを促しているのです。

2016.2.14

〜主の御手にゆだねつつ〜
 「主の御手におゆだねします。」と祈ることが多い私ですが、(これほど味わい深い言葉...)又見方を変えれば安易に口に出しやすい言葉だなあ〜と思いました。
 昨年7月頃息子の転勤話があり、「福岡」へ。本人も家庭のこと、年老いた親、さまざまな葛藤があったと思います。社命なら従うしかないと思いつつ私自身不安になりました。
月に数回仕事帰りに顔を出して茶を飲み、時には祈り等々していました。
嫁も本人もばたばた準備し、8月お盆に立って行きました。
福岡には、多数の教会があると聞き、本人も私も安心でした。すべて「主の御手にゆだねつつ」とは信仰です。
「主はあなたがたの必要は
  すべてご存知である」アーメン。
  T.K姉

2016.2.14

『ウォッシュ・ミー〜私を洗って下さい〜』(詩編51:3〜19)
 受難節(レント)は私たちの「人性」にとって神のきよさがどれほど必要かを深く考える機会です。「人性」においては、他人の汚点はすぐに目につくのに、詩編51 編のように自分の罪を主の前に告白し赦しを乞い、自分を作り変えていただくようにと願い求めることはなかなかできないのではないでしょうか。詩編51編の作者は神や敵を恨まず、罪のまことの悔い改め、美しくもあり、断腸の悲しみでもあるその思いを示しています。ダビデがバテシバとの姦淫の果てにその夫ウリヤを謀殺した罪の悔い改めを歌ったものだと言われていますが、誰のどんな罪の歌だとしても、作者の心底からの告白が本のページから飛び出してくる想いがします。
 詩編51編からはまた詩編の作者の神、わたしたちの神と同一の方の品性も伺い知れます。彼にとってとりわけ大事な二つの神性が、12節に示されています:許してくださる方、人を変えてくださる方です。「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。」神はその人の罪に汚れた心を洗い清めてくださり、その人を変えてくださり、進む道を導く新しい霊を授けてくださいます。詩編の作者の知っていることはキリスト者も知っています。キリスト者はイエス様の生と死と復活を通してその神性を知るからです。また、主を信じると公に言い表すことで、清められ、主に仕える新しいいのちをあたえられるからです。
 私はいつも良い人、正しい人でいることに大きな重荷を感じ、自分の罪を他の人に、そして神に告白することを本当に難しく思ってきました。しかしある本を読んだ時私の目は大きく開かれ、自分の過ちを隠そうとするのが神の家族に対する不誠実、主に対しての不信仰であるという思いを新たにしました。その本の著者の女性は教会生活を一度離れてから、新しく変えられてまた立ち返りました。彼女は、「キリストの教えは、自分に罪があると認め、それに対処する行動を起こしなさいというものだ」「良い教会は葛藤している人々、不完全な人々がみんなやってきて、他では言えない自分の真実を互いに語り合うための安全な場所になる」と語っています。過ちを犯し失意の中で主の前に行くことも、神への信仰の表明です。教会の兄弟姉妹の前で自分の信仰生活を偽ることなく、神に心からの告白を捧げるのであれば、神の家族ともより親しく交わり、主にもより近くまで進んで行くことができるのです。  
                   
                                カーソン・フーシー
※英語版と新共同訳版では詩編51編の節の番号が2節ずれています。

2016.2.14

 春一番聖霊の風を期待しつつ 〜
 先週の金曜日の朝、とても暖かく強い風を全身に感じながらディボーションタイムを過ごした後、その風が「春一番」であったことを知りました。「春一番」・・・“北海道と東北、沖縄を除く地域で例年2月から3月の半ば、立春から春分の間に、その年に初めて吹く南寄りの強い風。”(Wikipediaから)しかし春一番が吹いたからと言ってすぐ春が来るのでなく、寒さが戻ることが多いという話ですね。それでも確かに「春」がすぐそこまで来ているということでしょう。
 聖書の中に登場する風は「聖霊ギリシャ語でプニューマ、ヘブライ語でルアッハ」を表す時によく用いられるイメージです。目には見えないが、確かに存在しわたしたちの全身をもって感じられる風こそ聖霊なのです。またもう一つの聖霊のイメージは「息」です。息も同じく見えないものですが、確かに存在するもので、わたしたちの命にかかわる働きをするものです。エジプトを脱出する時、海に道を作ったのも風でしたし、初代教会の群れの上に臨んだのも風としての聖霊でした。またアダムを生きる存在とされたのが神の息であって、エゼキエルの枯れた骨の大群を復活させたのも神の息でした。そして小泉町教会と神の家族を変える力、あなたとわたしを造り変えてくれる力も風と息なる聖霊なのです。
 春一番の暖かさを全身に浴びながら、今年小泉町教会を導かれ変えて行かれる聖霊の働きを期待し、まず自分自身を聖霊の風にお任せしようと願います。神の家族一人一人もすべてを新しくしてくださる聖霊の風を期待しつつ、大きく息を吸って聖霊を生活の真ん中に迎え入れていただきますように・・・。シャローム

2016.2.21

〜私の「祈り」〜
「祈り」というのは、神への応答だと聞いた事があります。神が私たちに何を望んでいるのか、御心に応答していく事。
当時、正直あまりピンとこなかった事ですが、最近になってようやくその意味が分かってきたような気がします。
 家族を連れて富山に来て、約半年が過ぎました。転勤に至るまでは、いろいろなプロセスがあったわけですが、自分の思いと妻の願いは少し違っていました。そういった中で、最近「祈り」について考えるようになりました。
 「神の御心とは」と思いながらも、出てくる言葉は自分発信であるということに気付かされ、求めるべきは神の御心で、祈りは応答であると。
差し出された恵みは多いのに、それに対する祈りが自己中心的なものになっていたこと。
妻や子どもたち、また多くの人に支えられている今の生活を感謝し、素直に応答していく。そして何よりも神に喜ばれる人生を愛する人と歩みたい。
私が神に語られたことは至ってシンプル。
「起きよ、光を放て」イザヤ60:1 本当に分かりやすい。
あとは自分次第というところでしょうか。
                  T.K兄

2016.2.21

〜 バプテスマへと進む勇気 〜
 長く教会生活をしながらなかなかバプテスマへと進むのを躊躇する方々がいます。もちろんイエス様への信仰の確信がもてないという方には無理やりバプテスマを進めることはできません。聖書の教えるバプテスマはイエス様の十字架と復活の福音を心に信じ、イエス様を救い主として受け入れる決断から生まれる信仰の行為です。特に、その信仰を公の礼拝の場で証しし、キリストの体なる教会共同体の一人として受け入れられるという大切な礼典(サクラメント)なのです。ですからバプテスマを受ける理由は、教会員になるためでも、信徒会に加わるためでも、主の晩餐式に与るためでもありません。バプテスマを受けるために求められるのは信仰告白以外にないのです。たくさんの聖書知識が求められるわけでもなく、一定の信仰年数や何か資格を得るための基準を設けるのであればそれは間違いです。
 もしあなたが聖書のイエス・キリストを救い主と信じ、十字架と復活の救いの業があなたのためである信仰さえあれば、あなたはバプテスマを受けられますし、その信仰を神と人の前で表すことが求められるのです。
 聖書の中にはバプテスマを受ける場面がいろいろと紹介されていますが、大体の場合、イエス様を受け入れたその時点で直ちに起こる出来事として描かれています。“荒野で執事のフィリポに出会ったエチオピアの宦官が聖書の教えを受けて、イエス・キリストを信じたその時、オアシスで早速バプテスマを受けました。また、フィリピの牢屋でパウロに出会った看守とその家族が、パウロの教えに心打たれ家族全員がバプテスマを受ける場面もあります。その他、バプテスマはイエスを信じ、心に受け入れたところで執り行われたことを教えています。あなたにイエス様への確かな信仰があればそれでいいのです。バプテスマは恵みの時、祝福の時だからです。シャローム

2016.2.21

 信仰告白の岩の上に立つ教会』(マタイによる福音書16:13〜20)
 本日の御言葉はイエス様による初めての受難予告がされている箇所です。いよいよイエス様は公の生涯における最後の旅であるエルサレムへの旅を始められます。ちょうどその頃、イエス様は弟子に一つの質問を投げかけられます。「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」・・・この質問に弟子たちは答えなければならなかったのです。イエス様が関心をもっておられるのは、「人々」という漠然とした対象による評価ではなく、日々共に歩んでいる「弟子たち」からの心からの告白を期待しておられたことでしょう。その時、たった一人ペトロが答えます。「あなたはメシア、生ける神の子です」と。このペトロの信仰告白に応えられる形でイエス様の受難予告がなされていることが大切なのです。
 イエス様はペトロの信仰告白を喜ばれ、「シモン、あなたは幸いだ」と言われます。それからイエス様は「ペトロ」という名前が示すように、「“岩”の上にキリストの教会を建てる」と宣言されます。それだけではありません。彼に天の国の鍵を授けると約束をされます。ここでイエス様が言われている「岩」とは、人間ペトロを指しているわけではありません。そうではなく、「イエスを生ける神の子、メシアだ」と告白する信仰を表しているのです。その信仰告白の上に教会を建てるという意味だったのです。まさに「イエス・キリストをこの地に来られた神の子、メシア」だと告白する者の集まりが教会であります。この信仰をもつ人たちが集う共同体が教会なのです。そして確かな信仰告白の岩の上に立っている教会はどのような悪しき力、陰府の力が戦いを挑んで来ても揺らぐことはありませんし、勝利の賛美を歌うことになるのです。
 それから聖書は「その時から、イエス様自ら苦しみを受け十字架の上で死なれ、甦られることを打ち明け始められた」と記しています。それほど、イエス様の苦難の道と弟子たちの信仰告白は離してはならない関係にあることを紹介してくれているのです。主イエスキリスト者と教会共同体に望まれていることは2000年前も今現在も変わっていません。キリストの教会は確かな信仰告白の岩の上に建てられることで、どのような試練や試みに対しても影響されず、福音伝道に励むことになるのです。信仰告白が曖昧で、人間の思いが優先されている教会は少しの試練や試みにも崩れ、破れてしまうのです。
 受難節を過ごしている神の家族お一人お一人、特に執事選挙を控えている小泉町教会の群れに尋ねられる「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」という主イエスの質問に確かな信仰告白の岩を据えるわたしたちでありますように、そうすればわたしたちの教会を通して主は栄光を現してくださることでしょう。ハレルヤ!

2016.2.28

 旧約の時代、神様は人間が罪を犯してばかりいるのを見て、ほろぼそうとされました。今日の私たちもテロや殺人事件など人が犯す罪とあやまちの多い時代に生きています。路傍伝道をしても、聖書を受け取ってくださる人は少ないです。身近な人々に教会にいっしょに行かないかといっても、私の家は仏教ですからとことわられてしまいます。ノアは人々に洪水がおきるから悔い改めて罪をやめるように話しても、こんな雨も少ないのに洪水なんておきないよと、人々から笑われていました。人々は舟を造り続けるノアのことをバカにしていました。
 三浦綾子さんも、クリスチャンの友人が「許し」とか「救い」とか「信ず」という言葉を聞いて、上品ぶって大嫌いだと罵倒していました。また日曜には教会に通うことさえ反発を感じていたそうです。また、綾子さんは子供の時にモーセが赤ん坊の時に乗せられて捨てられた話の挿絵をノアの箱舟だと思い込んでいたそうです。人間は自分の考えが正しいと思い込むとまわりの人がどれだけ良いことを語っても悔い改めることはしません。政治家もクリスチャンでないからあやまった考えをして国民を困らせています。サタンは巧妙に人々があやまちから離れないように、キリストの救いに至らないようにいつも働いています。
 神様は人間がひとりでも救いを受けるように、さばきの日を延ばしておられます。世の中が平和になり、助け合い愛にあふれる世界になるよう祈っています。また、神を信じることのすばらしさを人々に語りたいです。
M.T姉

2016.2.28

〜 受けるより与える方が幸いです 〜
 昨年の暮れからS姉が中心となって話し合われた「自立支援のための料理教室」を小泉町教会の祈りの支援のもとで、有志の方々が力を合わせようと計画しています。もちろんまだはっきりと決まったことはありませんが、聖書の御言葉に励まされつつ新たな一歩を踏み出そうと思うのです。
 教会の働きとして最も優先すべきことが宣教(伝道)であることは幾度も強調してきました。そして宣教の形として路傍伝道を始め様々なことを試みてきました。もともと聖書が教える宣教(伝道)とは、「個人の救い」を目的とする一般的な口からの伝道と、「社会的責任を果たす社会救済」までを含むものです。実際、宣教とは「個人伝道と社会的責任」を車の両輪のように位置づけなければならないのです。この両輪は決して分離してはならないのです。しかしキリスト教会の宣教の歴史を見てみると、福音派と言われるグループは「個人の救い」を強調するあまり、教会の社会的責任に背を向けてきましたし、その反対に改革派と言われるグループは福音伝道と政治、経済的差別と貧困、社会正義などの社会的責任を同一視することで「恵みによる個人の救い」を疎かにしてきたのも事実です。それでは、今現在のわたしたちの教会はいかがでしょうか。
 わが教会は財政的にも大変厳しいですし、外に向けての関心を示すほどの余力をもっていない教会かもしれません。しかし、いつまでも内だけにとどまり外に向けた責任から目を逸らすことはできないでしょう。むしろ「受けるより与える方が幸いである」と言われたイエス様の約束の御言葉を信頼し、小さな幸いへのチャレンジを始めようではありませんか。シャローム

2016.2.28

『主よ、どうかお助けください』(マタイによる福音書15:21〜28)
 最近のテレビニュースや新聞に目を向けるのが怖いです。ほぼ毎日のように子どもへの虐待と子どもの悲しき死のニュースが報道されています。しかも虐待する側が“親”であることに衝撃の大きさがあります。このまま行けば、ある人たちが言っているように、国が制度を作って、試験に受かった人だけに親の資格を与えるという、冗談のようなことが現実になるような時代が来るかもしれません。なぜ、ここまで親子関係が崩れてしまい、しかも可愛い幼子が虐待の対象となったのでしょうか。
 子どもを大切に思う親の心は世界のどの民族、どの国をも超えて同じです。特に子どもが病気になってしまった時の親の子への思いは言葉で言い表せない切なさがあります。
 本日の聖書には一人のお母さんが登場します。彼女について聖書には、「悪霊に取りつかれている幼い娘をもっているカナンの女」という紹介しかありません。彼女に夫がいたか、親族がいたかは定かではありません。恐らくやもめとして幼い娘を育てていたのではないかと思われます。
 そのお母さんはしつこくイエス様に近づきます。叫び続け、嘆願し、ひれ伏し、プライドを捨て、自分を無にしてイエス様にすがりつきます。その理由こそ「愛する娘の癒し」でした。本日の聖書の御言葉には「これでもか、これでもか」と拒むイエス様に対して、「にもかかわらず」という姿勢をもって後ろを向かないカナン人の一人のお母さんの愛の格闘が描かれているのです。
 本日の御言葉の中に見られるイエス様のお姿は普段聖書に描かれている愛に溢れているイエス様の姿から遠く離れています。いつも弱い人、疲れている人、貧しい人、病んでいる人に近づき、癒し、両手を開いて招いておられていたイエス様でしたが、不思議と今日は「無視し、厳しい言葉を投げつけ、差別されるイエス様」がそこにいるのです。なぜでしょうか。なぜイエス様はここまで一人のお母さんをいじめているのでしょうか。
 実は、イエス様は彼女の信仰を知っておられました。イエス様は彼女の信仰が小さな試練や試みに挫けないことを御存じで、彼女のもっている究極の信仰を引っ張り出そうとされたのです。その究極の信仰こそ、“わが子を癒し救ってあげようとした母の愛の上”で花を咲かせるものでした。今もう一度確かめるべきこと、“あなたは愛していますか!あなたは無視され、傷つき、無にされても、愛をあきらめませんか”ということ。イエス様こそ、あなたのために無視され、傷つかれ、無にされ、十字架の上で死なれても愛をあきらめませんでした。ハレルヤ!