2018.12.23

 クリスマスおめでとうございます!小泉町教会の皆様お元気ですか。今年は福岡で迎える5回目のクリスマスになります。富山の冬の雪や風景を懐かしく思っています。さて、今月31年ぶりに新しい聖書(聖書協会・共同訳)が発売されました。私は予約をしていましたのですぐに書店に急ぎました。新しい聖書を手にすることの感動とワクワク感は何十年に一回しか経験することのできない貴重なものですね。手にとった第一印象はとてもスリムになり持ち運びしやすく、そして、何よりも読みやすい!昨年は「新改訳」も新たに改訂されて発売されました。今回の聖書は新共同訳の改定ではなく原文からの新たな翻訳ですので、すべてがゼロから新しく翻訳されたものです。一番はじめの日本語訳聖書は、1549年フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸したとき、彼はラテン語の聖書と共に、日本語訳の「マタイ福音書」の一部分を持って来たと伝えられています。言葉や日本語そのものも時代とともに変わります。しかし、決して変わることのない神の言葉がここに生きているのです。私はこの新しい聖書で2019年聖書通読にチャレンジしようと思います!心からの飢え渇きを持って、私たちを生かす命の御言葉をいただきたいと思います。            
                  宮田祐亮牧師(野方教会)

2018.12.16

〜 神との通信障害はありませんか 〜
 先日、ソフトバンクの大規模な通信障害が発生し、大混乱を引き起こしましたね。現代人の生活において欠かすことのできない一番のものが携帯電話ですし、もう携帯電話のない生活は考えられない時代となっています。ですから、突然の通信障害に遭われた方々が味わった混乱は大変なものだったことでしょう。わが教会の一人の姉妹もちょうど東京旅行中に通信障害に遭い不安な時を過ごしていたことを証しておられましたが・・・。ある人は「日本社会にとって新型災害」であると表現していましたが、これからのネット社会を考えると今回のような混乱は避けられないことでしょう。
 そこでクリスチャンとして問いかけるべきことが一つありますよね。“神様との通信はいかがですか”という問いです。たったの4時間足らずの通信障害でこんなにも大混乱に陥るのに、神様との通信が切れていることに気がつかず、別に不便さも感じない私たちではないでしょうか。ちょうどクリスマスの季節を迎えているわけですから、私たちの霊的通信装置をしっかりと点検する時として過ごしたいものです。
 旧約聖書新約聖書の間、マラキ預言者からイエス様の誕生までの約400年ほどの時を神との通信が切れてしまっていた暗黒の時と言われています。預言者が絶たれ、神の声が人々に届かない・・・。“主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。むしろお前たちの悪が、神とお前たちとの間を隔て、お前たちの罪が神の御顔を隠させ、お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ。(イザヤ59:1−2)”
 クリスマスは神ご自身が罪人と通信を回復するために、独り子を贈られた恵みの日、祝福の日です。罪人が神と通信するためには、イエス・キリストという方を通さなければなりません。…あなたは神との通信ができていますか。シャローム

2018.12.16

 『 イエス、わが王 』ヨハネ黙示録1:4〜7)
 いよいよ富山の冬が深まっている週末です。とりわけクリスマスの季節を過ごす神の家族と共に、クリスマスの主人公であるイエス・キリストを迎える備えができているかを確かめたいと思います。
 ローマ帝国の支配の最中であったA.D.1世紀頃の地中海地域は、キリスト者キリスト教会においては悲惨、そのものでした。あの有名なネロ皇帝の迫害から、その後続く皇帝たちによる迫害で多くのクリスチャンが命を失い、追放されていきました。使徒ヨハネもその一人でした。そして、今もヨハネはパトモス島に捕えられ、厳しい生活を余儀なくされていたのです。・・・しかし、そのような苦難もヨハネの信仰を折ることはできませんでした。ヨハネの目に映る、世界の支配者、世界の真の王はローマ皇帝ではなく、万軍の主、永遠なる神こそ世界の支配者であるという事実が揺れることはありませんでしたし、またそのことを人々に絶えず証し続けていたのです。本文の聖書箇所はそのような背景から読むべきであると思います。
4−5節の中でヨハネは神について、“今おられ、かつておられ、やがて来られる方”と表現します。普段だったら「過去、現在、未来」の順で表現するのが一般的です。それでは、なぜヨハネは時間の順序を替えたのでしょうか。それは、神の永遠の現在性を強調するためであったと思われます。すなわち、今という時は、迫害の時代、希望の見えない時代であるけれども、神の支配は今もなお続いているという信仰を表すためでした。そうです。神の、神の民への関心事は、「今」という時間を充実に生きることです。“今この時に、神は生きておられ、神の民と共におられる”ということです。過去を生きた人々の「今」を共に歩まれ、未来に生きる人々の「今」を支配しておられるお方。そしてまさに今という時を過ごしている私たちと共におられるお方。主イエスが私たちに関心をもっておられるのは、過去でもありませんし、未来でもありません。今なんです。あなたの「今」に主イエスは焦点を合わせて見ておられるのです。そしてその「今」というあなたの人生の時、主イエスはあなたの「王の王」になることを望んでおられるのです。
 続けてヨハネ、「更に、証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者、イエス・キリストから」…と記し、主イエスを証人であると、しかも誠実な証人だと告白します。そして、死者の中から最初に復活した実としての主イエスを、地上の王たちの真の支配者であると紹介します。ヨハネは、主イエスが再び来られる時、この世界の王たちを主の御前にひざまずかせ、すべての力ある者を裁かれると宣言しています。
 神の家族の皆さん、信仰によって生きるということは、私たちの人生にやって来られる主イエスを王として迎え入れ、王なるイエスを見上げつつ、今を生きることです。ですから、王なるイエスに従う人の生き方は、この世の中に生きてはいますが、この世に属していない人になります。この世の価値観にとらわれず、いついかなる時も、王なるイエスと相談しながら従順に従い、神の国の民としての価値観に生きる人になるのです。ハレルヤ!

2018.12.16

〜 心から赦(ゆる)す〜
 罪とか赦しとかを、私たちはよく口にします。しかし、その割にはそれらがよくわかっていないのが私たちの実際でしょう。そして、そういう私たちのためにそれらがよく分かるように導いてくれる機会が誰にでも必ず来ることに、注意をしましょう。
 その機会とは、赦さねばならない人に、立ちはだかられるように出会う時です。それは苦しい時ですが、「赦されて今ある」という人生の究極の事実に気付かせてくれる大切な時なのです。ですからそういう時が来たら、心からでなくてもとにかく赦そうと努力しましょう。
 罪と赦しがもともとよくわかっていない私たちに心から許すことなど無理な話なのです。心からでないからだめだと嘆かずに、心からでなくても、とにかく赦そうと努めましょう。時には怒りに押し流されることもありましょう。仕方ありません。しかし、そのたびに心を取り直して赦そうと努めましょう。  
 大切なことは「心から赦す」ことではなく「心からでなくても赦し続ける」ことなのです。「心から赦す」とは、泉のように赦しが内から湧き上がってくるという意味ではありません。    
 そのようなことは人間のできることではないのです。そうではなくて、たとえ心からでなくても「赦そうと心を取り直し続ける」こと、そしてその葛藤の中で「赦されて今ある」ことに立ち返り続けることです。     
                  〜藤木正三著「この光にふれたら」より〜

2018.12.9

〜 飼い葉桶から十字架へ 〜
 先々週からの二週間はわが家にとっては試練の時でした。義母が道で倒れ頭を打って救急車に運ばれ入院するという出来事があり、それに待ちに待った義母のビザが許可されないというダブルパンチを食らうという出来事が続きました。寂しさと悲しみ、諦めなどの複雑な思いが混じる中、クリスマスの諸準備に励む二週間でした。
 以前からクリスマスシーズンになると、私の身の周りには心苦しい出来事が毎年続いていました。二度の交通事故を経験したり、病気でダウンしたり、南川兄の召天があったりするなど、クリスマスシーズンに何度となく心苦しむようなことがありました。そんな中、神はクリスマスこそ、十字架の出来事と同じく、神が最も苦しまれた時であったことを示してくださいました。神が人となって人間の世界に降って来られたけど、人々には受け入れてもらえず、馬小屋の飼い葉桶でしか生まれることができなかった。また、メシアが生まれるということで多くの赤ちゃんが殺されるという悲劇が起きてしまった。当然喜ばれるべき救い主の誕生だったのに、決して喜ぶことのできなかった寂しく悲しい2000年前の初めてのクリスマスでした。・・・だからでしょうか。クリスマスシーズンになると、救い主の誕生を喜ぶと共に、  “いよいよクリスマスが来たな!主と共に苦しもう”という思いも同時に湧いてくるようになりました。ぜひ飼い葉桶から十字架へ続く神の愛のメッセージをしっかりと噛みしめる時を過ごされますように…。シャローム

2018.12.9

『 もう一人の恵まれた女性 』ルカによる福音書2:36〜38)
 聖書に記されているクリスマス物語は「待ち望む」人たちに臨まれた神の愛のドラマで満ち満ちています。その中でも、少し地味ではありますが、クリスマス物語から除くことのできない二人の物語があります。それが「シメオンとアンナ」の話です。とりわけ老人であるこの二人に共通していた生き方こそ、「待ち望む」という姿勢を一生涯貫くことでした。その二人のうち、女預言者とされているアンナの物語を分かち合いたいと願っています。
 聖書は「アンナ」のことを「女預言者」と紹介し、しかも彼女が「やもめ」であったと記しています。結婚して7年経ったある日、夫に先立たれてから84歳になるまで約60年ほどの期間を一人で暮らしていたということでした。それに加え、アンナは生涯をかけて神の神殿を離れず、夜も昼も神に仕えながら「断食と祈り」を大切にしていたと教えます。皆さんがもしアンナのような立場であったら、どんな行動をとられるでしょうか。恐らく恨みと憤りをもって神を離れてしまうかもしれませんし、新しい出会いを求めていたのかもしれません。また寂しさと悲しみに包まれて生きたかもしれませんよね。しかし、本文の彼女の姿から恨みや後悔、悲しみ、寂しさなどは見られません。
 クリスマス物語に登場する女性の中に、「恵まれた方」と呼ばれた女性がいました。その女性こそ、主イエスの母マリアです。「乙女が神の独り子メシアを産む」という旧約の預言を成就するために神に選ばれたマリアでした。その時天使ガブリエルより「恵まれた方」と呼ばれたわけです。このことで彼女は石打ち刑で殺されても仕方ない大変厳しい状況に置かれることになりますが、マリアは神からの召命に「アーメン」で答え、真の恵まれた女性になったわけです。
 そこで紹介したいもう一人の恵まれた女性が「アンナ」です。もともと「アンナ」という名前は「恵み」という意味を持っています。しかし、どうでしょうか。彼女の人生は名前通り恵まれていたでしょうか。世の価値観から見ると決して恵まれたとは言えません。むしろ神を呪いたいくらいだったかもしれません。しかし、アンナには神よりいただいた召命がありました。「この世の罪をすべて取り除き、贖い、救ってくださるために神が人として生まれる。あなたはそのみどりごを見る。そのみどりごメシアを見るまで、そのことを証しするまでは決して死なない」という召命でした。アンナはそのような神からの約束を「アーメン」と受け入れ、メシアの生まれるのを待ち望んできたのです。いよいよ神の約束が主イエスを通して成就した時、彼女は喜びに満ち溢れ証しすることで神からの使命を果たすことができたのです。ほぼ60年間に及んだ彼女の待ち望みの喜びと感動をあなたは感じていますか。
 神よりいただいたメシアの誕生を待ち望み、生涯を愛の奉仕と祈りと断食を続けてきた恵まれた女性アンナ。今あなたが生かされている理由こそ、成すべき使命があるからではないでしょうか。その使命を果たすまで生かされることを覚え「恵まれた人」としての人生を全うしていきましょう。クリスマスの恵みが豊かにありますように…。ハレルヤ!

2018.12.9

日々、皆様・神様に感謝して。
 私が、小泉町教会に通い出してから、11か月経ちました。私はこの歳になってから、多くのことを学んできました。まず、自分の過去におこした罪の悔い改めです。神の前のみならず、私と関わりのある方に対し、ウソを付かない。今迄の私は、親にも、ウソを付いてきました。親に良く思われたい、見離されたくないっていう、間違った考えを持っていた事から嘘を付いていました。その結果、親にも相手にされず、見離された状態でした。
 今年の7月迄の路上生活者になってしまったわけです。以前の小さな泉の恵みでも書いたのですが、今の自分があるのは、閔先生はじめ、教会の方々の暖かい気持ちに支えられて生きているんだなぁと感謝で一杯であります。私は、未だ神様のことに対し、解らないことだらけです。これからの神様との交わりの中で、しっかり向き合いたいです。
 その為にも、日々生かされていることを神に感謝して、私と関わりのある方に対し感謝の気持ちを忘れずに、嘘偽りなく、1日、1日を大切にいきたいと思います。 
                   Y.H兄