2016.4.10

〜入会の証し〜   
わたしは中国の吉林省生まれです。朝鮮民族に属しています。
二十代前半に友人の紹介で始めて聖書を見せてもらい、教会で礼拝とお祈りをし、インターネットでも説教を聞いて、信仰が芽生え、26歳の頃、京都純福音教会でイエス様を救い主と告白してバプテスマを受けました。
その後、今の夫と結婚し富山での生活が始まりました。智成を妊娠すると、赤ちゃんにあげるべき一番大切なものはこの世の中のどんな物より、神様をプレゼントすることだと確信するようになりました。そのため、まず自分自身から神様を正しく知る必要があると思い、聖書を読みはじめました。理解出来ない部分も沢山ありましたが、御言葉を読むことで心が平安になり、感動のあまり涙が出たこともあります。自分が正しいと思っていた事が実は愚かな事だと悟るようになりました。良い事をし、正しく生きようとしても、心の中をすべて知っておられる神様の前では罪人に過ぎない自分に気づかされたのです。
罪のないイエス様が十字架の上で私の罪を贖ってくださったこと、私を救い神様の子供とする為に神様がイエス様を復活させてくださったことを感謝します。神様の霊である聖霊様を贈り、導いてくださる神様を賛美し愛します。何より、小泉町教会へ導いてくださったことを感謝します。物足りない私ですが、皆さんと一緒にイエス様の体なる教会を愛し、再臨のイエス様に合う日まで力を合わせて歩んでいきたいと思います。
A.S 姉

2016.4.10

『漁に出る 』(ヨハネ21:1-14)                      
 私たちは、ときどきは今やっていることから完全に離れて、心を休める必要を感じます。今日読むヨハネ福音書の箇所で、イエス様の弟子たちもそんな気持ちだったのではないでしょうか。本日の出来事までの何週間かは彼らにとって波乱の日々だったからです。イエス様の十字架上の死と復活を経験した彼らにとっては喜怒哀楽がジェットコースターのように上がったり下がったりの日々でした。ある夜、ペテロと他の何人かの弟子たちは、ガリラヤ湖へ漕ぎ出ました。勝手のわかる昔からの仕事になぐさめと落ち着きを求めたのでしょう。しかし夜が明けて日が昇る時、彼らは予想もしないできごとに遭遇しました。イエス様がもう一度現れ、彼らが本当に求めていた慰め、満足、確信を与えてくださったのです。「自分たちはいったい何者なんだ」と心に疑問を抱いていた弟子たちは、岸から声をかけてきた人をイエス様と知って、岸辺でともに朝食をとることで、その答えを思い出したのです。そう、イエス様の弟子、人間を獲る漁師です。この朝食で、彼らは再び弟子として、出て行って神の国のために人々をイエス様の弟子とする命を受けました。
 私たちもいろいろなことに圧倒される日々を過ごしています。課題に直面する毎日。今自分を取り巻く暗闇から逃げ出したいとひとりで飛び出して、道を見失い希望も失って、「私は一体何なの?」という疑問にとらわれてしまうのです。そんなとき思い出してみましょう。イエス様が自分の過ごす日々のどこにおられるでしょうか、あるいはイエス様に初めて出会ったのは人生のどんな局面だったでしょうか。それを思い出せば、「私は何なのか」という疑問にも、「私たちは神の子供たち、イエス・キリストの弟子」という答えを思い出すでしょう。弟子である私たちにイエス様はどうやって祈るかを教えてくださり、隣人を愛するようにと、飢えた人に食べさせ渇いた人に飲ませ、やもめとみなしごを支え、主の名によって世界中の人を弟子にするようにと教えてくださいました。私たちはイエス様のものなのです。
新年度の新しい日が始まります。イエス様は待っておられます。岸に戻って、イエス様と合流し、ともに漁に出かけましょう。
                 カーソン・フーシー宣教師

2016.4.10

〜 光に包まれて旅立つ 〜
 先週は息子の中学校入学式がありました。親であれば誰もが経験することではあると思いますが、心から込み上げてくる感動と神様への感謝に満ちた一日でした。しかし、まったく新しい旅だからでしょうか、緊張と不安で固くなっている息子に安心感と期待を与えようといろいろと励ましの言葉をかけたりしましたが、本人が感じることは格別なものだったでしょう。同じように、新年度を迎え、入園、入学、進学、就職、引っ越しなど、新たな旅に出かける神の家族が多くいます。子どもたちの進むべき道を備え助けてくださる父なる神が、一人一人の歩みを祝福し、最善を賜りますように・・・。
 さて、小泉町教会も新たな体制とビジョンをもって旅を始めました。本日の礼拝では、新たな旅のために先頭に立って仕える新執事とCS教師の就任式を執り行います。キリストの体なる教会における奉仕者はみな仕えるものになるべきです。執事は「給仕する者」という意味をもっているように、喜びと謙遜さをもって仕える存在ですし、教師は「主であり、先生である」イエス・キリストが弟子たちの足を洗われる模範を示してくださったように、キリストの御心を示すべき働き人です。
 また神の家族は選ばれた人たちのために祈り合い、励まし合い、助け合い、愛し合うことが求められていることでしょう。その上、何より大切なことは神の家族お一人お一人のもっている賜物を健康なキリストの体作りのために用いることにあります。キリストの体は一部の働き人の頑張りや能力だけでは成り立たないことを知っています。
 愛なる神が希望の光に包まれて旅立つ小さな群れを祝し、進むべき道を照らし導いてくださいますように・・・。

2016.4.17

〜富山で仕事を与えられ〜
 僕は2016年度から富山YMCAの舟橋村にある学童保育で働くことになりました。それまで、大学を卒業した後いろんな場所で働いてきました。こうしていろんな場所をふらふらしながら生きていくと、「一つの場所にとどまって働いたほうがいいよ」と言われることがたまにあります。もともと安定志向の薄い僕の性格もありますが、神様が様々な場所へ導いてくれたのではないのかな、っと思うことがあります。大学を卒業した直後、指の骨を折り働く予定だった山小屋に行くことができなくなり、卒業していきなり仕事がなくなったこともありました。当時は落ち込み、不安になることもありましたが、仕事が始まるほんの数日前というあまりのタイミングの悪さに逆に神様が「山小屋に行くのはやめてけ」と言っているのかなと、思うようになりました。オーストラリアから富山に帰って来る時も、友人の結婚式や飼っていて犬の寿命のことなどが重なり予定よりも早くに帰国することになりました。YMCAで働かないかと誘われたのもこの直後になります。オーストラリアにいるときからきちんと子ども相手の仕事がしたいと思っていたので、これも神様の導きだと思っています。前にやっていた仕事が終わり、次の仕事を探している時は不安で惨めになることがありました。しかし聖書にも、「神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものは、みなそなえて与えられるであろう。あすのことで思いわずらうな。あすの苦労はあす自身が思いわずらうであろう。」とあるので、この先何かあっても、神様がそなえてくださあるように祈っていきたいと思います。神様が与えてくださった富山の地での仕事を一日一日頑張っていきたいです。
S.H 兄

2016.4.17

『あなたはわたしのもの』(イザヤ43:1〜7)                    
“彼らは皆、わたしの名によって呼ばれる者。わたしの栄光のために創造し、形づくり、完成した者。”(43:7)
 神は、わたしたち神の民を創造された時の御心を、「創造し」「形づくり」「完成した」という言葉で表現されています。ここに書かれている「創造し、造られ、完成する」は、ほぼ同じ意味で使われる言葉です。しかしヘブライ語原文を見ると、その意味が、だんだんと発展の過程を辿っていることが分かります。まず、神が「ご計画の中で人を創造され」、「形づくられ」、最後に「完成される」という、それほど神は格別な御心の中であなたとわたしを創造されたわけです。
 神の創造とは、無から有への創造であります。そして神の創造におけるクライマックスとなるのが、人間の創造であったことを聖書は教えます。神の似姿で、神の品性をもって造られた人間の創造こそ、神の創造の御業におけるクライマックスであったのです。人は創造者なる神と交われる存在、神の御心を知り、神と共に世界を作り上げていく格別な存在として創造されました。聖書は人間を造られた後、そのすべての創造されたものをご覧になって「極めて良かった!」と歓声を上げる神を紹介しています。
 神はこのように創造された傑作品となった人をご覧になりながら、次のような感想を述べられています。“わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛している”(43:4)と。だから神は人に向かって“恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。”(43:1)と宣言しておられるのです。ここで注目したい言葉が「あなたはわたしのもの」です。この言葉は神を信じる人にいかに素晴らしい安心感と確信を与えてくれるでしょうか。あなたがどのような状況に置かれていても、どれほど破れに満ちていても、罪と悪に汚れ、いろんなことに失敗してしまい落ち込んでしまったとしても、あなたの神はあなたを見放したり、見捨てたりすることは決してないという保証の言葉なのです。だからあなたは恐れることはないのです。自分自身に自信が持てず、小さくなってしまうこともないのです。神は今日もあなたの名前を呼び、親しく交わってくださいます。ハレルヤ!

2016.4.17

〜 御言葉が変える〜
“世にもとうとく清きふみあり 古く汚れてはあれど 子は亡き母の愛したまいし 神の言葉聖書なり〜♪♪”
 わたしが幼い時、母とよく歌っていた讃美歌の一部です。英語の曲名は「My mother’s bible」。わたしが覚える母も上記の賛美歌のように、聖書が好きで、手から聖書を離したことがない敬虔なクリスチャンでした。その中でも、いつからでしょうか。母は聖書全巻を筆写してから、今はもう筆写したノートを3巻ももっています。母の人生は御言葉を愛し、御言葉によって変えられ、御言葉に生かされ祝福されてきた人生であったと言えましょう。恐らく母は今日も聖書を手にしながら、富山にいる息子のために祈りをささげていることでしょう。
 最近の小泉町教会の群れにおいて何よりも嬉しい変化が起きています。「リビングライフ」を通して一人一人の生活が御言葉によって力づけられていること、また聖書の学び、水曜祈祷会、ディボーションタイム、夕礼拝などを通して御言葉による命と感動に包まれているということ、それが教会の群れ全体に良い影響を与えているということです。諸集会の参加者もだんだんと増えてきています。しかしただの人数だけの増加に限らず、一人一人の全人格と生活が変えられていることが喜びです。人の力や知恵でなく、ただ御言葉による変化と恵みなのです。・・・ 
 そうです。御言葉にはすべてを変える力があります。御言葉に渇きを覚え、真心から御言葉に触れる人は誰でも変わらずにはいられないはずです。“天地は滅び失せても神の言葉は決して落ちることはない”という御言葉を信じつつ、共に御言葉の岩の上に立ち新年度の歩みに励んで参りましょう。シャローム

2016.4.24

〜「小さな泉の村」出発信仰!〜   
『わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』(マタイ25・40)
 先月の24日、路上生活者支援の活動を7年間続けてきたグループ『あったか相談村』の最後の活動がサンフォルテで行われました。平日にも関わらず、会場には利用者のおじさんたちを始め、ボランティアさん、弁護士さん、富山ダルクの会、介護施設司法書士会青年会の方々、など、支援に関わった人々が集合し、「あったか村」の最後を祝福するように、協力して楽しそうに料理する姿が見られました。 
 富山小泉町教会からも、見学を兼ねて7名の兄弟姉妹が参加しました。お忙しい中、参加して下さった兄弟姉妹の想いに、こころが暖かくなりました。できあがった料理をみんなで囲みつつ「あったか相談村」は、7年間の幕を閉じました。
 しかし、一度閉じたその活動が、すばらしい神様のタイミングと導きで、2016年5月14日(土)から富山小泉町教会のバックアップにより、「小さな泉の村」として再生することになりました。
 「あったか相談村」の代表Nさんの最後のあいさつで、「村」が再生して続くことを聞き、「よかったね〜」と喜ばれたボランティアさんのほっとしたような笑顔や、心から嬉しそうに笑ったおじさんの笑顔が、目に焼き付いています。
 冒頭に記したみ言葉を心に刻み、「小さな泉の村」が「主の愛」にあふれた場所として、そこに集う「小さな人々」のいやしと喜びになるよう、切に祈っています。
                 S.Y姉

2016.4.24

『 星と輝く人々 』(ダニエル12:3、マタイ福音書5:14〜16)
 あなたが憧れているスターはいますか。そのスターは誰でしょうか。芸能人かもしれませんし、政治家、スポーツ選手かもしれません。それから、人は憧れのスターの真似をしたり、自分もスターになろうと夢見たりしているのかもしれません。神の家族はいかがでしょうか。
ダニエルのことを思います。幼い頃、愛する祖国を離れ、敵国のバビロンに捕虜として連れられて来て、バビロン王に仕える。しかしダニエルは、神の民としてのアイデンティティー、神の民としてのプライドを忘れることはありませんでした。そして、神はダニエルをバビロンだけでなく、その後のペルシアにおいても、素晴らしく輝く星として用いてくださいます。異国の地、異国の神々の世界において神の民として生きるということは、大変なことだったでしょう。しかもその異国の地で、人々が憧れる「スターになる」ということは奇跡のようなことだったのかもしれません。
“目覚めた人々は大空の光のように輝き、多くの者の救いとなった人々は、とこしえに星と輝く。”
 この世における「星と輝く」人とは、優秀な人、能力のある人、権力のある人などを指しましょう。しかし、聖書が宣言する星と輝く人は、「目覚めた人、多くの者の救いとなった人」です。ここで「目覚めた人」とは、思慮深い人、注意深く分別のある賢明な人を指します。すなわち神の霊を受け、時代を見極める知恵を得ている人が、星のように輝くことになるのです。それだけでなく、神が求められる星と輝く人は、暗闇の中にいる多くの人を、神の救いの方へと導く人であると教えます。
 愛する神の家族の皆さん、今わたしたちの生きている世界は暗闇です。自然災害、戦争、不義と不法といった闇に覆われている状況です。しかし、星は、暗闇の中にあってもっと輝きますし、星は自分の置かれた場所を離れず、暗闇の現実に悩む多くの人を導くのです。このような人を、神は「神の国におけるスターである」と言われるのです。
 本日は2016年度定期総会の日です。主イエスは小泉町教会の群れに向け、「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」(マタイ5:16)と御声をかけてくださいます。神の家族お一人お一人の歩みが、時代をしっかり見極める知恵をもち、多くの者の救いとなる星(スター)と輝く一年でありますように・・・。

2016.4.24

〜 パンを水に浮かべて流す 〜
“あなたのパンを水に浮かべて流すがよい。月日がたってから、それを見いだすだろう。”(コヘレト11:1)
 旧約聖書のコヘレトの言葉です。ここで「パン」とはわたしたちが手にしている持ち物、賜物、働きのことを指しています。すなわち、人が所有していたものを、握り込まないで手を開き、貧しき者、社会弱者、災難に遭った人たちのために放してあげることです。今の世界がここまで弱肉強食と言った競争社会、差別社会になっている理由こそ、“自分のもの”と握り込んでいるからです。主イエスはわたしたちに“あなたの手に握っているものを放してやりなさい。わたしがそうであったように!”と語りかけておられます。人が握っていた物を水に浮かべて流すことで、神はわたしたちの捧げたものを無駄になさらず、やがてブーメランのように、恵みを賜ってくださるはずです。このことは主イエスも言われた言葉です。「受けるよりは与える方が幸いである」(使徒20:35)・・・。
 世界各地で地震や火山噴火などの自然災害に遭い苦しんでいます。熊本地域における今回の地震は今まで経験してきた地震とはだいぶ変わった姿を見せています。これから収束していくだろうか、逆に広がっていくか不安の中で見守っていかなければなりません。今の時、わたしたちに求められることは、持っているパンを恵みの水に浮かべて流すことです。価なく受けた主イエスの十字架の愛に倣い、価なく恵みの水に流すことです。そうすれば、神は人知を超えた祝福をくださることでしょう。今、あなたの手に握られているものを水に流すことはできますか。