2016.5.29

 福岡に転勤になり早や10ケ月が過ぎました。こちらの生活にもなんとか慣れ、仕事もやっと起動に乗りつつあります。これも一重に皆様の御祈りの賜物であり、感謝しております。
 家族と離れて暮らす事は辛く、孤独に慣れることはなかなかできません。先週は、大型連休で富山に帰省して、家族と一週間程過ごし福岡に戻った翌朝、目が覚めた時、子供達がそばにいるような感覚があり、福岡に戻っている事がわかると恐ろしい孤独感にみまわれました。私は本当に弱い寂しがりやの情けない男です。その日は、日曜日でいつも行っている教会へ日曜礼拝に出席させて頂きました。帰り際に牧師先生に声を掛けられ、その日は礼拝後の食事も、他の行事もなかったので近くの公園の茶屋で食事をご馳走して頂くことになりました。牧師先生とは歳も近く、お互いの身の上話をさせて頂き、豊かな楽しい時間を過ごすことが出来ました。
 コリントⅡ12-9 「すると主は、『わたしの恵みはあなたに充分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」
今日も主に依り頼み感謝して歩んで参ります。
小泉町教会におきまして大いなる恵みと祝福が与えられますようお祈り致します。アーメン。
                         T.K 兄

2016.5.29

 『 神の家に住む 』(詩篇84:1〜13)           
 先日、稲垣さんと敦賀の「人道の港ムゼウム」という小さな博物館を訪ねました。6000人のビザで有名な杉原千畝さんの発給したビザでヒトラーの魔手を逃れたユダヤ難民が、シベリア鉄道ウラジオストックまで来て、そこから敦賀に上陸していたことを知ったからでした。敦賀の市民はこれらユダヤ難民を受け入れ、宿を貸し、銭湯を提供し、病人の手当てをしたのです。安心して住む家がある、ということを、ユダヤ人の一人は「ここは天国だ」と言いました。
 家族がともに住むということがどれほど大切なものかを震災の現場からの報告で痛いほど感じます。家とは、ともに生きる場であり、命の交わりの場であるということです。
 今日のみ言葉を通して、詩人は、「神と共に一つの家に住むことが最高の幸せである」と言います。キリストがクリスマスに生まれ、私たちを迎え入れてくださいました。人が神の傍に住む、神と共に生きるということが、私たちにとって最高、最大の目的なのです。神と共に生きることなくして、他のことは全く色あせてしまうのです。
 神は、どんなに人間が反抗しても、私たちと共に住むということをあきらめないのです。神は私たちと共に住み、共に悩み、共に泣き、共に生きることを望まれます。
 神は新しく、「共に住む」ということを願われます。神は、内在する神として私たち一人一人のもとにやってきた!のです。それは「聖霊」と呼ばれます。この人は嬉しくて仕方ない!と喜びで顔を輝かせているのです。幸せだと言っているのです。誰かが、この人を見たら、「あなたはなぜ、そんなに嬉しいのですか?」と問わずにはおれないような幸いな人について語っているのです。聖霊が宿ってくださっているからです。
 あなたは何かをするためにここにいるのではありません。
ただ、神と共にいることが大事であり、神がそれを望まれていることが大事なのです。
 この箇所で住むということを「ヤーシャブ」という言葉であらわしています。意味は、一箇所に留まっていること、移住すること、座ること、何もしていないこと、結婚することなどです。端的に、一緒にいることが目指されています。あのザアカイはイエスを自分の家に迎えました。そうしたら、ザアカイは変えられてしまいました。
 神が私たちのところに来られ、内在する神、聖霊として絶対に離れない交わりへとわたしたちを導いておられるのです。
                                  田口 昭典

2016.5.29

〜 リーダーのために祈る 〜
 先週日本中がG7サミットのことで盛り上がっていましたね。とりわけアメリカのオバマ大統領が現職の大統領としては初めて広島を訪れたことが人々の関心を集めました。世界のリーダーとしてのオバマ大統領の一挙手一投足が及ぼす影響力を再三確認できた場面であったと思います。
 ナショナリズムの流れが日に日に増している世界情勢の中、何とも言えない将来への不安に包まれている近頃です。その中でもオバマ退任後のアメリカの大統領が誰になるか、あまりにも暴力的で危険な発言を続けるトランプさんがなるのではないかということで世界中が不安の目で見つめている状況です。これこそ一人のリーダーが及ぼす影響力の大きさを表す典型的な例であると言えましょう。
 聖書はリーダーのために祈ることを命じます。それほどリーダーの存在の大切さ、リーダーに求められる責任、神からの使命が重いからでしょう。しかし聖書に登場する多くのリーダーは初心を忘れ神の前で罪を犯し、イスラエル共同体もリーダーに倣い罪に妥協し堕落してしまいます、その結果神の厳しい裁きに遭ったことを聖書は繰り返し告発しているのです。神の家族の皆さん、ぜひリーダーのための祈りを休まないようにしましょう。まず、小泉町教会の牧師のため、日本バプテスト連盟に連なる諸教会の牧師たちのために、それに加え日本の安倍首相をはじめとする世界の指導者たちのためにと、祈りの境を広げていきましょう。ますます悪と暗闇が力を増している昨今の時代を見極めつつ、神の国と神の義を求めることを第一とするわたしたちの群れであるように・・・。

2016.6.5

「真実なる主の恵み」 
 主の尊いお名前を賛美します。
 まず初めに、いつも私たち夫婦の為にお祈りいただき、またサポートをいただき、心より感謝申し上げます。そして姉(黒澤)家族が貴教会に集わせて頂き、恵みに満ちた教会生活を送らせていただいていますことも感謝です。
 私たちは今、タイのバンコクにある日本語教会で、牧会の働きをさせて頂いていますが、働きをする前(正確には神学校へ行く前)、両親は私たちのことを想って、フルタイムの献身を反対していました。両親はクリスチャンだからこそ、献身者の大変さをよく知っていたからです。両親の反対を押し切って献身してよいのだろうかと、非常に悩んでいた時、あるみことばが心に迫ってきました。「まことに、あなたがたに告げます。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、その百倍を受けない者はありません。」(マルコ10:29,31)これは、何よりも主を優先する者を、主は豊かな恵みで満たしてくださるという約束のことばです。このみことばを通して、神様はご自身に従う私を祝すだけでなく、私が大切に想っている家族をも祝してくださるという確信が与えられ、両親のことも主にゆだねる決心をしました。その後、神様はみことばを実現してくださり、2人の祖母、叔母、姉の長男が次々と救いに導かれ、今年のペンテコステの日には、姉の次男が貴教会で洗礼の恵みに与らせて頂きました。真実な主の御名を心から賛美致します。
              タイ聖書福音教会伝道師 横谷環

2016.6.5

『 ネヘミヤに学ぶ① 』〜執り成しの人〜 (ネヘミヤ書1:1〜11)
 崩れ落ちた信仰共同体の痛みと厳しい現実を胸に抱き、心から愛の執り成しを続ける一人の人。そして、祈りの答えとして神の御手が働かれる時、自ら進んで積極的に信仰共同体を建て直していく一人の人。また、様々な批判と試練、誘惑と苦難が絶えない働きの現場においては、鋭い洞察力と知恵、リーダーシップをもって乗り越えていく一人の指導者、ネヘミヤという人です。彼はすべての面において保証されていたペルシアでの生活を後にして、祖国イスラエルの厳しい現実と神のビジョンを前に、喜んで自分自身を献げる決断を下す人でもありました。
 バビロン捕囚からの「第三次帰還」(紀元前445年)を率いたのは、祈りの人ネヘミヤでした。ネヘミヤという名前は“主が慰めてくださった”の意味です。彼は異国の地で生まれ成長しました。そして、彼はペルシア王アルタクセルクセス一世の献酌官という高い地位を手にするほど成功した人でした。
 しかし、彼は決して自分の成功や身の安全だけがあれば、自分の家族や身の周りだけが平和であればいい!という意識はもちませんでした。彼の心の中には、いつも祖国への熱い想いがありました。そして、滅ぼされたままの祖国エルサレムを悲しみ、エルサレムのために執り成し続けていたわけです。すなわち、ネヘミヤは愛国者だったと言えましょう。
 ネヘミヤはエルサレムから戻ってきたハナニという親族から打ち破れていたエルサレムの城壁の現状について聞くことになります。それを聞いたネヘミヤの反応を見てください。“これを聞いて、わたしは座り込んで泣き、幾日も嘆き、食を断ち、天にいます神に祈りをささげた。(4節)”
 わたしたちも常に家庭の城壁にヒビが入り崩れそうになる危機に直面します。また、信仰共同体の城壁が様々な敵の攻撃を受ける中で、厳しい戦いを強いられることも経験します。それから日本社会の政治、経済、倫理などの城壁が崩れ落ちていることを目の当たりにしています。このような状況の中で求められるのが“祈り”です。ただ、漠然とした空を打つような形だけの祈りでなく、日本社会の問題課題を胸に抱き、涙と命をかける執り成しの祈りを主は望んでおられます。
 これからしばらくの間、ネヘミヤの信仰と祈りを黙想しながら、信仰共同体を建て直すビジョンを現実のものにしていく力を学んでいきたいと思います。とりわけネヘミヤの城壁再建と信仰復興のために献げられた執り成しの祈りを身につけたいと思います。生きておられる神は、あなたの祈りを用いて倒れかけているすべての城壁を建て直してくださるでしょう。

2016.6.5

〜 あなたの呼吸、あなたを生かす祈り 〜
  
 先週の水曜祈祷会には今までの祈祷会の中で最も多い12名が集いました。7時30分より9時頃まで、12名の祈りの友がまず神を賛美し、それぞれ与えられた御言葉からの恵みを分かち合い、祈りの課題にそって執り成し祈る恵みの時を過ごしました。皆の口から“おー、12弟子か!”と喜びの叫びが上がるほど、祈祷会に加わる人数が増えることは大きな恵みであり慰めです。
 聖書は断言していいます。「祈りが生きている群れを通して神は働かれ、祈りは奇跡を呼び起こす」と。そして神は祈らない個人、祈らない共同体は用いないことを教えておられます。なぜならば神は祈りを通して働かれ、祈りの中に御業を成して行かれるからです。使徒パウロが“絶えず祈りなさい”と勧めていますが、ここで絶えずという言葉は、息をするようにという意味で、わたしたちの信仰の呼吸こそ祈りであって、祈らなければ死んでしまうことを表しているのです。神の家族の皆さんは祈りの呼吸を止めてはいませんか。
 祈祷会の出席者が多いからわたしは出席しなくてもいいと思わないで、ぜひ祈祷会に集いましょう。あなたの祈りがあなたと家族を生かし、小泉町教会と日本の国を変える力となるのです。もし、わたしたちがからし種一粒ほどの信仰をもち、祈り求めるのであれば、神は巨大な山をも動かし、わたしたちの思いをはるかに超える御業を成し遂げてくださるはずです。その出発こそ祈りです。一人の祈りから共同体の祈りへ、個人のための祈りから執り成しの祈りへと祈りの輪を広げる中で、わたしたちは大いなる神の祝福に与ることになるでしょう。シャローム

2016.6.12

 もう25年も前の話。(数えてびっくり!)
 主人の仕事の都合で、米国ミシガン州に2年ばかり住んでいたときの、サンクスギビングという日本のお正月に似ている祝日に経験した出来事です。
 当時、クリスマスやサンクスギビングといった重要(?)な祝日には、ショッピングセンターやレストラン、マクドナルドにいたるまで、店を閉めていました。 外国人である我が家族は休日ルンルンで、アナーバーという学生街に出かけていました。 学生たちはそれぞれの実家に帰っていたのか、街はひっそりとし、お昼になっても、美味しいにおいで誘ってくるお店もなく、「えっ?私たち、何か食べたい!」と焦って、お店を探したところ、少し高級そうでしたが、一店だけ開いている(ように見えた)レストランを見つけました。「ええい、日本人だけど入れてくれるだろう」と、思い切って店内に… 何かが違う。何が?????メニューがない。
 座ると、自動的に決まった料理(日本のおせちのようにサンクスギビングの献立)が運ばれてきて。不思議な空気を感じながらデザートまでいただき、支払いをしようと請求書を求めると、英語(当たり前?)で何やらよくわからない説明。すこし理解のできたのか、主人が店内を見渡し…気づいてしまいました。「これは、ホームレスの人たちのために開かれているお店だ!!!」
 その瞬間、気まずいような、恥ずかしいような、消えてしまいたいような、(そんな気持ち、わかってください)でも、どうすることもできず、できること……少し多めのチップをテーブルに置き、ごめんなさいの気持ちを込めて頭を下げて、店を出て、一目散に帰宅しました。店員さん(?)は、いいのよ、いいのよ、というジェスチャーで「エンジョイ!ミシガン!」と、見送ってくれましたが、これがまた、私たちを恥ずかしい思いにさせたりして。それからは、「向う(アメリカ)にはこんな文化があるのよね…」と自分を正当化し、忘れてしまいたい思い出の1ページとして頭の引出しにしまいこんでいました。
 数年前の執事会で、S姉から、ホームレスの方々を支援したいとの意見が出され、そんなことは、日本のしかも富山では実現難な課題だと思っていましたが、神様にその思いをゆだね、今、「小さな泉の村」を立ち上げるにいたったS姉の信仰は本当にまぶしいです。私も、あの時の“借り”を何かの形で償えますよう、S姉の、そして小泉町教会の活動にできることから応援させていただきたいと思っています。
               K.I姉

2016.6.12

『 ネヘミヤに学ぶ② 』〜御言葉に立って祈る人〜 (ネヘミヤ書1:1〜11)
 先週からネヘミヤ記を分かち合っています。ペルシア王の献酌官をしていたネヘミヤのもとに、祖国エルサレムの悲惨な状況を知らせるニュースが届きました。その知らせを聞いたネヘミヤは、座り込んで泣き、幾日も嘆き、食を断ち、天の神に祈りをささげはじめます。その時献げたネヘミヤの祈りは、今現代のキリスト者の祈りがどうあるべきかについて模範を示してくれます。とりわけ執り成しの祈りが何であるかについて知ることができます。
 先週分かち合ったように、ネヘミヤは神を賛美した後、自分の罪、父の家の罪、イスラエル共同体全体の罪のための悔い改めの祈りをささげます。ネヘミヤは神の御前に進むためには、まず心からの悔い改めがなければ近づくことができないことを知っていたことでしょう。しかも彼とは直接関係のなかった先祖たちの犯した罪の歴史と自分自身を一体化することで執り成しの場へと進むのです。わたしたちはネヘミヤを通して、信仰とは決して一人の救いだけにとどまらず、信仰共同体の救いまでも含むものであることを教えられます。
 ネヘミヤは、更に進んで神の約束に目を留めることになります。神は、イスラエルの犯した罪のゆえに滅ぼされ、バビロン捕囚といった悲しみに落されたけれども、イスラエル共同体が悔い改め、主に立ち帰り、戒めを守り行なうのであれば、主なる神は必ず赦してくださると、申命記30:1〜4で約束しておられます。ネヘミヤは、神のその約束の上に立って「思い起こしてください」と訴えます。そうです。ネヘミヤの祈りは、御言葉の約束の上に立つ祈りでした。わたしたちの信じる神は、御言葉の約束されたことを守られるお方です。神は今日も神の人に御言葉を通して語られ、御言葉を通して関係を深めておられます。成熟したキリスト者は、自分の思いや感情に頼る人ではなく、常に御言葉の約束に立って祈り、御言葉の約束を生きる人です。その人はどのような試練や妨害、状況にも振り回されることはないのです。
 最後に、ネヘミヤは具体的なリクエストで祈りを終えます。それは、「今日」、アルタクセルクセス王の前に立つ時、王から憐れみを受けることができるようにしてほしい!という願いでした。ネヘミヤの祈りは、漠然としたものではありませんでした。ネヘミヤは11節を通して、自らを「神の僕」と、アルタクセルクセス王を「この人」と呼びます。これは、「主の主、真の支配者こそ神」であるという信仰告白です。神の前に、ペルシア帝国の王はただ一人の人に過ぎません。あなたの目の前の人を恐れないことです。すべてを支配しておられる神を信じ、一歩を踏み出す人は幸いです。

2016.6.12

〜 兄弟会の新しい一歩を応援しつつ 〜
 健康な教会の判断基準の一つとして、教会の各会がそれぞれ生き生きと活動していくことであると思います。
 全国のどこの教会においても女性会がない教会はありませんし、女性会中心の活動がなされていることでしょう。小泉町教会も女性の方々が中心的に活動しています。しかしそんな中、壮年たちも各会としては組織されていなくてもすでにキリストの体のための多くの働きに関わってきています。定期的に昼食を準備し、営繕、草むしりや花壇整備など、また特別行事がある度に、駐車場案内、路傍伝道などなど、目立たないけれども必要とされる時にはいつも最善を尽くしてきました。そこで、神は兄弟たちに御心を示され、一つの統一した働きをするためには兄弟たちの力を一つにまとめる会を作ることになったわけです。・・・先週の日曜日の午後、まず4人の壮年が集いました。その時に決まったこととして、会の名称を「兄弟会」とすること、兄弟会のリーダーを南川兄が担当することでした。成人した兄弟であれば誰もが入れるということで「兄弟会」と名付けましたが、後に青年会などが結成されるのであれば、会の名前を変更することになるかもしれません。
 今からわたしたちの群れは夏を迎え、チャペルコンサート、ファミリーキャンプ、英会話教室キャンプ、平和集会などのプログラムを行なうことになります。すべてが神の福音を宣べ伝えるために大切な諸行事です。新しい一歩を踏み出す兄弟会の皆さんをはじめ、小泉町教会の神の家族が力を込めてイエス・キリストの愛と救いが届けられる諸行事となりますように・・・。シャローム